溶解大陸

アニメの感想とか書きたいなあ

プラスティック・メモリーズ#03 アイラちゃん可愛すぎ限界突破NP問題

あー!!はてなフォトライフに課金してしまったー!! 最近アニメ感想を書けていなかった理由の9割がこれ。アニメ感想を書く時にはやはりキャプチャ画像が何枚か欲しくなってくる。けれどもアップロード可能容量がもう一杯。書こうと思っても画像があげられない。その困った状況が原因で、アニメ感想から足が遠ざかってしまったのだ。

では思い切って課金してしまうとどうなるか。その場合、はてなブログ依存がますます強くなり、個人HP作りからますます遠ざかってしまう。こんなことを書いてしまった以上、はてブロ依存が強くなることは出来る限り避けたかったのだが、結局「アニメ画像アップロードしたい欲」が「個人HP作ろう気分」を遥かに凌駕してしまった。その結果がこの課金だ。ちょっと胸が痛い。でも最高。無尽蔵の画像アップロード容量が手に入ったってわけだ。これで思う存分アニメ感想が書ける。

というわっけで、今まで溜めに溜めておいたプラメモ3話みてきまーすw いやはや、ずっと見てなかったから少し不安になってきたよ。

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2つの疑問

文章を書く、という意気込みは価値を創造するのだろうか?というまた一つ厄介な難題が頭に浮かんでは消える毎日、皆さんいかがお過ごしでしょうか。例えばだ。例えば、俺がいま幸福の絶頂に居るとしよう。そんな俺が何も考えずに打った文章の価値は、一体どれほどの物になるのだろうか。幸福の絶頂に居るため「面白い文章を書くぞ」という意図は介在せず、ただ勢いだけでキーボードを叩いてしまう。それによって出力された文章は、果たして面白い物になるんだろうか。

具体的に言うならば、平常な気分の時に「幸福の絶頂に居る、ということを読者に感じさせるような文章を書こう」と意図して書いた文章と、実際に俺が幸福の絶頂に居るときにただキーボードを叩くことによって生み出される文章では、どちらがより”面白い”ものになるのか、ということだ。考えてキーボードを叩くか、感情に任せるままキーボードを叩くか。どちらのほうが読者にとっては面白くなるのか。そこのところが、いまいち謎だ。

というか、学校教育だと「文章に感情を込める」という作業を一度もやってきてない気がする。俺が特別無感動なだけだからか?学校の指示で読書感想文を書かされるときに「この本、とってもステキ!超感動した!この思い、どうしても先生に伝えなきゃ!!」という気分でいたか?俺は全くそんなことはなかった。なんとなく「それっぽい」感想文を適当にでっちあげては宿題のノルマを達成していた。高校以降はそれぞれの教育現場によって状況が違うから一概には言えないが、特別な授業だったり特殊な学校に進学しない限りは「感情を込めた文章」を書く機会なんて全く無い。俺はこれまでの人生で、そういう類の「感情を込めた文章」を一切書かずに生きてきたのだ。ブログを始めたことで、突然そういう物を書くようになり、上の方で挙げた疑問が生じたのも当然の帰結かもしれない。

少し自分語りになってしまうが、俺の場合はそういう「感情を込めた文章」という物をメモ代わりに年明けくらいから書いていた。主にアニメを見ているときである。主に、というかそれ以外では一切ない。このメモは感情の赴くままに勢いだけで書いてるのでとても人に見せて理解され得るような物ではない。それを人に理解され得る形に推敲し、ネット上に公開したらどんなリアクションが得られるだろうか、という興味がブログを立ち上げたきっかけの一つである。だいたい、ある程度整ったテキストの形式になってる物は俺の感情が極力、できる限り文章の方へ載せてあると思ってもらって良い。例えば初日の記事やアニメ感想系記事だ。だからこれらは「感情が昂った状態のなか勢いで書き、その後読める形に推敲した文」ということになる。本題は、これら勢いで書いた文章と俺が冷静な時に面白くなるように意識して書いた文では、どちらの方がより面白いのか、ということだ。

正直、書いていて楽なのは前者の方だ。つまり、感情が高ぶっている時である。後から推敲する作業はめちゃくちゃだるいものの、文章の骨格自体は勢いで書いてしまえる。だから、推敲するだけの十分な時間と感動さえあれば、俺自身がテキスト作成のために必要とする精神力はあまり多くない。むしろ、体力の方が消耗する。一方、後者の場合、あえて面白くなるように意識して文章を書く場合はけっこうな重労働だ。ある意味では無からの創造である。ネタだけはある状態から脳内をこねくり回し、面白い表現を意図的に見つけ出さなければならない。なにせ、感動が無いのだ。初期状態には「これこれこういうことを、読んでる人が退屈しないような形式で書いていこう」という気持ちしかない。勢いで書く場合と比べ、こちらの方がより多くの精神力を要することはすぐにお分かりだろう。

で、最初の問いに戻るんだが、この二つの状態で書かれた文章のうち、一体どちらがより”面白い”のか。面白い文章が出力されるのか。読んでいる人間が「最後まで読みたい。どんどん読みたい」と思える文章になるのか。そこが疑問としてある。この文章はある意味では、問題提起というか、脳内の疑問を書きだしただけなので、どちらにも属さない。ただの”日記”だ。こういう日記ではなく、もっとこう、例えば小説を書いている最中だとしたら「読者を感動させよう」と思って書いているときと「うああああ!!ノ、ノエルちゃーん!!ノ、ノ、ノエエエー!!」という気分で書いてる時では、どっちの方が完成度が増すものなのか、ということが気になるんだ俺は。できれば楽な方であってほしいが、もしかしたらある程度の気力は必要となってくるのかもしれない。それを考えると少し嫌だなぁ、という気分になる。

 

というかそもそも、「感動しながらキーボードを叩けば、ある程度はその感情が文章にも載る」ということを前提にして話を進めてきたが、これが間違っているという可能性もある。俺がどんなに感動してキーボードを打ったところで、そこから出力される文字列に俺が感じていた感動なんて一つも載ってやしなのかもしれない。ってあー、これか。いま気づきました。俺はこれを感じ取っていたのだ。

いま何に気づいたかというと、「どちらが面白いのか?」というのが瑣末な問題でしかなく、「感動しながら文章を打ったところで、その感動は文章に載って相手に伝わってないのかもしれない」というのがより本質的な問題であることに気付いた。マジで俺こういうの多いね。日記ってこういう効果があるから侮れない。書いてる内に脳内が整理されていくんだろうか?脳内垂れ流し治療だよ。説明しよう!脳内垂れ流し治療とは、思いつくままにいま感じている疑問を書き連ねていくことにより、俺自身が持つ本当の気持ちに辿り着くことができるという、テキスト掲載ブログの新たな使用法、21世紀型の精神治療である。副産物としてこういう気持ち悪い文章が生成される。本日は「精神的に高揚してる時に適当に書いた文と、冷静なときに面白さを意図して書いた文では、どっちが実際に面白いの?」という疑問から「果たして本当に俺は感動を文章へ載せることができているのだろうか?」という不安が導き出された。なかなか痛切な問題である。

実際、感情さえ載せることができているのなら、どちらの方が”面白い”かなんて明白なわけだ。そりゃ人の感情が乗ってる文章の方が面白いはず。多分。おそらく。例えばテキストサイトのファニーなテキスト。これもやはり”面白い”と感じる場合はどことなく感情が乗ってる場合が多い気がするんだよね。「テキスト芸」×「感情」≒「面白さ」という公式がある気がする。そりゃま、起承転結とかそういう基本に沿ってるかどうか、ってのも面白さに関与してくるけど。やっぱり「ああ、この人はいまこういう気分なんだろうな」というのが伝わってくる文章ってのが、良いテキストなのかもしれない。悲しいとか怒ってるとかそういう単純な感情に留まらず、どこか冷めた目線とか、悲惨な目にあっている自分自身への嘲笑とか、そういう細かい感情も含めて、文章のみで表現できればそりゃ面白くなるよ。テキスト芸ってのは、そういう細かい気持ちを伝えるための手段なのだ。boketeで大喜利を見たり考えたりしている時にこれは本当に感じた。

 「テキスト芸」と「感動」というのは切り離して考えるべきなのだ。というか「感動」というのは「ネタ」とも言える。これはまた昨日の記事と話が被るけども、「ネタ」というのは「感動(≒心を動かされたこと)」なのだ。大喜利で言えばお題で与えられたシチュエーションへの感情移入、そこから生み出される心を動かされる何か。そういう考え方ができるかもしれない。

だからやはり、テキスト芸の技術があるのにそれを持て余している、書くことがないって人は、感動(なんらかの形で心を動かされること)を求めて日々を暮らすべき(小説とか書ける人は強い)。「心を動かされる」というだけで、あれよあれよという間に書くことがどんどん増えていきます。やはり始めに「伝えたい気持ち」ってのが無いとモチベーション保てんよ。例えば、「何か面白いことに気づいてそれを伝えたい」とかね。やっぱそういう、基本的な部分が大事になってくるのかもしれない。

なんか毎日のように同じことを書いてる気がするけど、やっぱ「三日坊主」にならないか不安があるんだよね。文章を書くモチベーションをいかに保つか、という点に意識が集中している。最近はそういうことばかり考えているから、必然的に書く内容もそちら側へとシフトしてしまうのだ。この”日記”の良いところは、気分に応じて好きなことが書けるということ。自由に書いていける。こんなに素晴らしいことはないね。自由だよ。何を書いてもいい。疑問だろうが不安だろうが大喜利の考察だろうが、基本何をしても良いという点に”日記”の良さがある。なんだろうな、俺はもう制約されたくないのだろうか。文章を書くときに生じる「こうしなければならない」という何かから逃れたいのだろうか。テキストもどうせなら勢いだけで書いていきたいって気持ちがあるし。あ、いかん。どんどん自己分析ヌマの深みへとはまっていく。ヤバイ。戻ろう。戻ります。

 

要するに何が言いたいかというと、「文章力って大事だね」ってこと。当初想像していたよりも至極当たり前な結論に到達してしまった・・・結局のところ、感動したまま強いモチベーションを持って書き綴ったところで、総合的な意味での文章力が無ければその時の気持ちを伝えることなんてできやしないんじゃね?ってこと。俺の不安の源泉はそこにある。

いやー、当たり前だけどもシビアな現実に気付かされてるよ。あー俺が感じている気持ちのうち数ミリ%も伝えられてないのかもしれないなーっていう不安。最近少し憂鬱な文調が続き気味なのは、そういう当たり前の現実に24歳にして初めて気付かされたからです。はい。だって今までそういう類の文章なんて書いてこなかったんだもん。実際に書いて、ネット上に公開してみて、初めて気付く本質という物もある。テキスト掲載系ブログ管理人として、思春期の少年みたいに悩みは尽きません。揺らいでるね。テキスト芸、奥が深すぎ。「自分のスタイル」という物が掴めていない。模索の時期にあるなと感じる。当初は勢いのある熱い(?)文を載せていた当ブログでしたが、管理人である不肖ユズカイめの思春期的な悩みによってクヨクヨしているため、今やこうしたグダグダ日記しか載せられない現状があります。

 

うーむ・・・やはりいま抱えているこれらの問題を解決しないことには、俺はいつまでたっても前に進めない、という気がするぞ。悩みがあったらそれを吐き出したくなるし、日記の形で吐き出していたらテキストは書けない。なんとかしてこれらの不安というか悩みというか、得体のしれないモヤモヤに決着を付けなければならない。

やっぱ根本に「日記ばかり書いてるのは嫌。中身あるテキストが書きたい。でも書けない」というフラストレーションがあるのかもしれない。「文章に感情を載せることができるのか」の判断は、こうして適当に書き散らしている日記ではなく、文章力を必要とするテキストによってのみ可能となる。俺が今日抱いてる疑問や不安なんて、全て「やってみりゃ自ずと答えが分かる」タイプの物だ。テキストを書いてみて色々とこねくり回す内に、わかってくることもあるんじゃないか?boketeに少し取り組んだだけでも色々と学ぶことが多かったし。こちらについて後で別記事の方にまとめてみたい。

あ、てか、「悩みがあるから日記ばかりになってしまい、テキストが書けない」というのに「テキストを書かなければ悩みの答えは得られない」のであれば、これって車の中に鍵を置いたまま閉めちゃったパターンじゃね?どうあがいてもこの悩みループから出られないじゃん。ちょっとちょっと。これは困る。このままじゃ一生日記しか書けないってこと? やばい。いつの間にか俺は日記の袋小路に迷いこんでしまったのか?

ということは別に無くってですね、アニメ感想の一本でもサクッと書いちゃえばそれでテキスト出来上がるから。日記の袋小路なんて、無い。考えすぎ。でもま、テキストを書かずに日記を書いてるからこうしたグダグダ文章が生まれてしまって考えすぎてしまう、という一面もあるわけだが。あ、混乱してきた。頭がおかしくなる。俺は何を言ってるんだ? もう今日は考えるのやめます。

まぁ、こうしてグダグダ書くことによって整理のついた部分も実際あるわけだから、日記を書くのが無駄だとは一概に言えない、ってのが難しいところではある。今日のところはひとまず、整理のついた部分をまとめて一旦終わろう。つ、疲れた。

昨日と今日の日記の内容をまとめるとこんな感じ。

 

疑問点その1、書き手の感情という物は意識せずとも文章に表れてくるものなのか?

疑問点その2、日記とアニメ感想のモチベーションは分かった。ならば、小説を書くときのモチベーションとは?(昨日の日記)


とりあえず今後の目標は、これら2つの疑問に対する答えを見つけ出す、ということになるだろうね。解決したら良いなー。何かしら答えらしき物を知っている人が居たら教えて欲しいものです。でもこういうのって、自分で答えを得ないことにはその本質を理解することはできない感じなのかもしれんなー。でも解決の糸口だけでもいいから知ってる方が居たら教えて欲しいです(大切なことだから二度言った)。こうやってグダグダ悩まずに済む程度には、スッキリとして明確な答えを見つけられたらいいなー。

文章を書いてネットにアップしていただけなのに、意図せずして難しい問題に足を踏み入れてしまった俺。明日はどっちだ。

時間を決めて書くということ

ぴぎゃああ!!いくら日記を書いているのが楽しいからといって、最近ちょっと時間を気にしなさ過ぎです。そりゃね、いけませんよ。人間、限度ってものを知らなければなりません。自分のやりたいことだけをやってるなんて、貴方は猿と一緒ですよ。動物と一緒です。人間になりたくないのですか?というね、そんな風に俺の理性くんが俺に説教してくるから、これからは色々と考えなくっちゃならないなって思った。

そりゃ俺だって無限に日記だけを書いていたいさ。こうやって脳内を垂れ流す内に気づいたら寿命が来ていてほしい。そんな気持ちでやっている。マジで日記をいくら書いていても明日が来ないで欲しい。でも来ちゃう。来ちゃうんですよねこれが!明日って奴は必ずやってきて、生きている対価として俺に労働というものを要求してくる。そんなことされたらこっちだって逃げるでしょ。俺だって黙っちゃいないよ。逃げるね。全力で逃げる。そうやって逃げ続けた先に到達したのがこのブログです。(あ、ブログさんちっすw逃避先としていつもお世話になってやすw今日もシクヨロっすw) そうやって俺は明日の到来を恐怖し、気づいたら日記やテキスト作成に現実逃避しまくってた。そして気付いた時には投稿時刻が深夜3時やら4時やらばかりになってた。だってさー、一度書き始めたらさー、最後まで書ききりたいじゃない?一度中断したら同じ感じで書けなくなっちゃいそうじゃん?でもいくらなんでも3時4時はヤバイっしょー

 

そしてどうなったかというと、俺の次の日の睡眠不足レベルがヤバイ、という事態になった。眠いね。マジ、眠い。ずっとずっと寝ていたい。布団の中に入って、日記を書くだけの存在と化したい。女児アニメを見て日記を書くだけの存在と化したい。そういう妖怪になりたい。

でもまあこの睡眠不足、全て俺が悪いんだよね。まあ、別にその日の内に書き終えなければならない、っていうルールは無いわけだし、ただでさえ長文になっているんだから2日にまたがって一つの記事を書いてもいいじゃん。そこを、「一日で書かないと同じようなテンションで書けないかもしれないから」ってだけで1日で書き終えようとするとか、俺臆病すぎ。もう少し平和ボケしてほしい。3日にまたがろうが1週間にまたがろうが、前と同じ調子で書き続けられるというくらいの自信は持ってくれないと困る。あと、その、もったいない精神みたいのいらない。どうせ途中まで書いた文章も永久ローカル保存でHDDの肥やしになっても全く問題ない質の文章だから。普通に、ダメだなこりゃ、と思ったら公開せずに放置しとけばいいでしょ。なんでそれくらいのことができないかね?そんな心の弱さが今の睡眠不足の俺を生み出している。

ということで、これからは時間を区切って書く。心を鬼にして、時間を区切る。なんていうか、”テキスト”はともかく”日記”ならば無限に書けるような気がしてくるのよ。無限というのは言い過ぎだけど、体力が続く限りはいける気がする。だから時間が来たときに「ここでやめっ」て伝えてくれる合図を、きちんと準備してから日記を書き始めないといけない。そうしなきゃ深夜4時になってもテキストエディタを前にしてキーボードを撃ち続ける壊れた機械が生み出されちゃうからね。思念を垂れ流すだけのデク人形。それが俺だ。ただただ思考を垂れ流し続けている。マジ、ちょっと、楽しいからってそういうのやめろ。後から読み直してちょいちょい文を修正する作業とか超だりいんだよ!!長く思考を垂れ流せば垂れ流すほど、その作業が糞面倒になってくる。だから区切りの良い時にやめてくれ。そして、どうせなら最初から”日記”ではなく”テキスト”を書いてくれ。思考を垂れ流すのやめろ。最初から脳を使った文章を書け。

 

というかね、脳内垂れ流しに限らずきちんとした文章を書こうと思っても、気付いたら深夜になっていたりするからビックリする。そんな情熱、一体俺の中のどこにあったの?っていうね。俺が俺のママだったら息子である俺の熱意を見て感心するレベル。息子の未来に期待しちゃうレベル。それほどの熱が発生して、気付いたら深夜3時まで書いてるからね。ほんといったい、「コントとしてのプリキュア」の一体何が俺をそんなにも掻き立てたんだろうね・・・マジビックリ。書き終えた後に一番驚愕したのが俺。「俺、何やってんの?」っていう、素の疑問が脳に去来した。「深夜3時だよ?」っていう。

遅くまで書いてる上に、しかもその内容がその日に見たプリキュアのまとめ。「よし、真面目にテキスト書くぞ!」って意気込んだ後にテーマとして選ぶのがそこ?っていうね。そんな気持ちが自分の中に無かった訳ではない。無かった訳ではない、が、仕方がなかったんだ。それしか無かった。プリキュア以外に真面目に書くべき事柄が何一つ思い浮かばなかった。悲しい人間のサガ。俺が一日の生活を終えた後で頭に残っていたのはプリキュアの放送だけだった。そんな、2015年4月19日(日)だった。

再びこの日を繰り返すことはできない。2015年4月19日(日)という俺にとってかけがえの無い一日は、プリキュアだけを残して過ぎ去ってしまった。でもま、プリキュアがあっただけマシだったかもね。だって俺たちの人生なんて、砂を噛むような無味乾燥で単調な毎日だし、モノクロに彩られた日々の景色は、待ちぼうけをくらう僕らの心をただ通りすぎていくだけだしさ。涙の泉が溢れでて焦げた大地に果実を実らすのであれば、光の陰に照らされた観客は幕間の終わりを知らされることになるだろうしね。

 

という感じ。という感じで日記書いてるよ俺。な?めっちゃ楽。めっちゃ好き勝手できる。というか、もしかして真面目に書いた文章より、こうやってヘラヘラして書いた文章の方が人気ある説ある?マジ?ほんと嫌になっちゃうね。脳を使うってなんだろうね。もしかして、俺たちは間違った脳の使い方をしているのか?左脳より右脳ってこと?イメージが大事ってこと?ネット上ではもはや左脳的な文章は求められていないってこと?脳直(のうちょく)の方がいいの?マジ?マジかよ・・・俺はね、脳を使わない”日記”ばかり書いている自分に反省し、「たまには真面目な記事も書いてみんとな。中身を期待してブログ記事を読んでくれる読者に失礼というものだろう」と奮起してからテキストを書いてるわけよ。この日記より10倍は精神パワーを消費している。超頑張ってる。それなのに、俺はこんなに頑張ってるのに・・・それでも”日記”の方がいいだなんて・・・どういうことなんだ!!!俺のことはどうでもいいってのかっ!!ええっ!?なんとか言ってみろ!!俺は、お前のことを愛してる!!愛してるから、愛してるからこその鉄拳だ!!!(バキッ 愛の鉄拳だ!!(バキッ 俺が真面目に書いた記事よりも、こういう適当なこと書いてる方が良いのか!!?”良いのか”って聞いてんだよっっ!!(バキッ くそっ!!俺だって、俺だってなぁ・・・うぅ・・・くっ・・・う、うわあああ!!!(ガンガンガン

 

もうそういうことだからダメなんですよ。自分と切り離した文章を書く訓練を積もう。これ。これをやっていきたいの。こんなの、いくら書いても何一つ成長しないっすよ。マジ。だってマジで、何一つ考えてないんだよ。やってやったぜ感が何一つ無い。衝動のみで書いてる。もはや文明人とは思えない。未開拓の部族だ。日記しか書けない未開拓の部族だよ。

その部族のコミュニケーション手段は異質だった。

彼らはジャングルで採取した植物の繊維を元にして紙を作った。植物の余った部分は釜で焼き、木炭にしてインクに使った。彼らは自前の紙に文字を綴り、それによって互いにコミュニケーションを取った。彼らは言葉を話さなかった。文字は存在していたが、それを発音するという概念は部族の認識から欠落していた。彼らにとっては、活字のみが唯一の伝達手段だったのだ。

紙には書き手の考えが記された。その文面は一種異様で、初めから最後まで話題が一貫していることはほとんど無かった。彼らは、考えるということを知らなかったのである。「言葉を使って考える」これは紙に文字を記すことと等価であった。日常生活において彼らの思考は全てイメージだった。言葉によって考えることができたのは、紙の上に文字をかくときだけだった。

その紙には真実のみが記されていた。嘘は一切書かれていなかった。考えることと文字を書くことが等価である彼らの文章には、必然的に思考過程の全てが記されることになったからだ。嘘を書こうとしても、「嘘を書こう」という考えが紙に記されてしまう。コミュニケーションを取り続ける限り、彼らは互いに考えの全てをさらけ出した。

部族民同士の仲は非常に良好だった。本音で伝えられる情報は部族の長によって統括され、長の書いた文書が部族全体の方針を決定した。個人間での争いも、長に連なる5人の文士によって調停された。確かに彼らのコミュニケーション手段は特異だった。しかし、そうであるが故に、本音で語られる相手の気持ちは常に尊重され、彼ら部族の人々は仲睦まじく平和に暮らしていた。そう、あの事件が起こるまでは・・・この物語は、部族の若者ユズイカが、平和な村で起こる凄惨な殺人事件を解決に導き、成人として迎えられるまでを描く、ビルドゥングスロマンである。

 

というのは嘘でね。というか最初に言ったでしょ。もう時間やべえって。時間を気にして書くって、最初に言ってたでしょ。こんなこと書いてる場合じゃないから。いや、めっちゃ、死ぬほど、ほんとうにとんでもなく気が向いたらこれ小説にするかもしれないけど、もう話の筋の時点でマジ詰んでる。無理。俺の力量じゃ、無理。だからこんなこと書いてる場合じゃなくてね、記事を終わらせなきゃ。俺はね、明日のためにそうしなきゃならないのよ。うっ・・・寂しいよぉ・・・みんなぁ・・・書くのやめるの寂しいよぉ・・・

コントとしてのプリンセスプリキュア 12話 「きららとアイドル!あつ~いドーナッツバトル!」

女児向けアニメと聞いて即座に拒否反応を示す人も居るかもしれない。なにせ、我々の大半はもう良い歳した大人である。「小さな子ども、それも女の子が見ることを想定したアニメを、良い歳した大人の自分たちが楽しめるわけがない」そういう思いに捕らわれていたとしても、誰も責めることはできない。私もかつてはそのような大人の一人だった。しかし、今や私も女児アニメの虜である。プリプリからプリパラ、ジュエルペットまで、定番の女児アニメは広くカバーするようになってしまった。私がこうなった理由は何故か?女児アニメが大人の観賞に耐え得る、丁寧に作られた完成度の高いコンテンツだからである。このことを知らない人間はまだ多いはずだ。だから私は一つの使命を帯びてこのブログを運営している。「女児向けアニメは大人が見ても面白い」という事実を人々に広く知らしめる。私が密かに持っている目標の一つである。

 

既に女児向けアニメを見始めてしまった大人の方なら、この事実を良く理解して頂けると思う。「わかる・・・(スゥーッ)女児アニメ、最高!!」と。けれども、まだ女児アニメなんて見たことのない大人からするとどうしても「そんな訳がない。女児アニメを大人が見て楽しめる訳がない」という気がしてしまうものなのだ。この記事は、そんな考えを持つ大人たちに「女児向けアニメは大人が見ても面白い」ということを伝えるために書いた物である。

 

今回のテーマはコントだ。プリプリ12話は完全にコントだった。女児アニメのコントなんて本当に楽しめるのか?それについて考えていきたい。結論からいうと12話はきちんとコントとして成り立っており、最高に面白い回の一つだった。その面白さを理解するには実際に見て頂くのが一番なのだが、見逃してしまったり女児アニメへの偏見が強くて重い腰が上がらないという人も居るかと思う。今回は拙筆ながら、プリプリコントの面白さが少しでも伝えられるように頑張ってみたい。

 

12話のあらすじはこうだ。

テレビの食レポ番組に出ることになったきららたむ。普段はそんな番組に出るきららたむではないが、今回は好きなドーナツ屋の新商品が食べられるということで参加してしまった。そこで、その番組のレギュラーリポーターである一条蘭子と出会う。蘭子はボケた性格だった。初めはそんな蘭子を変な子としか見てなかったきららたむだが、新作ドーナツを賭けた3本勝負となると、ライバル意識むき出しの蘭子にきららたむも負けたく無いと思い始める。3本勝負のラストでは、欄子のテレビに対する熱い思いを感じ、欄子のことを認め始めるきららたむ。勝負が終わると、いつも通り悪役のシャットが夢を持つ蘭子をゼツボーグ化させる。欄子のことを認め始めていたきららたむはプリキュアになり、蘭子を無事に救い出す。

話の流れはざっとこうだ。これがいかにしてコントと化すのか?それを説明していきたい。

 

まず、話の空気作りだ。そもそも前回の11話が非常にシリアスな話だった。敵の迫力が凄まじく、もう良い年をした私でさえ少し恐怖を感じたくらいだ。女児ならば普通に泣いていたと思う。ボロボロになりながらも力を合わせ、ギリギリのところで強敵に勝利するプリキュアたち。それが前回の話だった。そこから急に方向転換し、間に日常回を挟むなんてことはせずに、バリバリのコント回をいきなりブチ込んでくるのだ。並の神経ではない。視聴者がついていけない展開の早さである。しかし、プリプリではいともたやすくコント回への空気転換を実現してしまうのだ。

話の冒頭、「わたし、みんなの力になりたい」とゆいちゃんが語気を強めて言う。それを見てゆいちゃんのことを仲間と認めるプリキュアの3人。ここまで時間にして30秒。前回の話までのシリアスな流れは、これでおしまいである。前回までの流れに冒頭の30秒でオチをつけてしまう。前回倒した敵やら新たに手に入れたアイテムについては全く触れられない。前回は前回、今回は今回なのだ。女児向けアニメは基本的に、前回までの流れをグダグダ引きずったりしない。
「よろしくパフ」というパフに「こちらこそ」と返すゆいちゃん。直後、ドアを叩く音がなる。新たな来訪者だ。それはきららたむが所属するプロダクションの社長だった。

 

社長はきららたむに仕事が持ってくる。グルメリポーターの仕事だ。真面目にトップアイドルを目指すきららたむは「もーやるわけないじゃーん」と最初は断るのだが、仕事で自分の大好きなドーナツの新作が食べられると聞いて、ついつい引き受けてしまう。
視聴者である我々も、そんな食べ物に釣られちゃうような可愛らしい一面を持つきららたむを見て安心する。最初はクールに断ったにも関わらず、食べ物に釣られてしまって恥ずかしがってるきららたむの表情が、これだ。コミカルだし、とんでもなく可愛い。

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確かに1話前まではシリアスな空気感だった。視聴者側がシリアスからギャグに頭を切り替えるのには、普通時間がかかるものだ。しかし、こんなきららたむを見て、それでもシリアスな展開を引きずるような視聴者がいるだろうか?導入時点で我々は11話でのシリアスムードを忘れ、きららたむの可愛さによって非常にリラックスした状態にさせられるのである。コントへの準備は、OPが始まる前に完成するのだ。

 

その後、食レポの番組取材のシーンになると新キャラである一条蘭子が登場する。先輩リポーターとして、新人のきららたむに敵意むき出しで登場する蘭子。この時点では視聴者にとって蘭子の行動はとても奇異に映る。なぜなら、まだ欄子のことを「ボケ」として認識していないからだ。

ドーナツ屋をリポートするシーンでは、蘭子がカメラにアップで映ってきららたむの仕事を途中で遮ったりする。少しイラっとするシーンだ。きららたむが真面目に仕事をしようとしているのに、蘭子は「きららたむを邪魔したい」という独善的な思いから仕事の邪魔をする。リラックスはしつつも脳がまだ真面目モードから抜け切れていない我々は「この行動は仕事人としてヤバイんでないの?」と思ってしまうのだ。蘭子のせいでリポートが成り立っていない。
ところが、一番の責任者である監督はこの有り様を「いいね~」の一言でまとめてしまう。ここで我々は「おや?」と違和感を持つ。監督は俺たち側の人間ではないのだろうか?と。蘭子によってリポートはメチャクチャである。真面目に仕事をするつもりであれば、監督として蘭子の暴走をたしなめなければならないはずだ。それを「いいね~」の一言で終わらせ、あまつさえハイテンションで「さてここからはマーブルドーナツ三本勝負をしてもらいまーす」とか言い出す監督。

視聴者である我々は、監督の反応をみて違和感を持った時点で、既にコントの世界に足を踏み入れてしまっているのだ。普通ならば監督は怒り出すはずだ。それにも関わらず監督は満足気。とすると、これは普通の世界観ではない?深く考えても無駄なのか?思考を放棄しろということか?我々は徐々にコントへの受け入れ体勢を整えていくことになる。

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ちなみにコントが始まることへの伏線は、見学しているはるか達によって張られている。テレビに映ることを期待してリボンを徐々に増やしていくはるかに、ゆいちゃんが「リボンが増えてる・・・」とツッコむのだ。「テレビに出られるかも、なんて期待を密かにしてんのかよ」というツッコミを、非常に軽くしたものである。軽くボケるはるかに、ゆいちゃんが軽くツッコム。この軽いコントも、後にある蘭子による本格的なコントの前段階となっている。

 

新作ドーナツの試食権がかかった三本勝負が始まると、そこからはもう雪崩のように欄子のボケが強まっていく。1戦目のゆるキャラお絵かき対決では、普通に可愛いデザインをするきららたむに対して「ん~もぉ、これだから初心者は」と呟いた後、とてもじゃないが女の子が描いたとは思えないゆるキャラ「根性ドーナツくん」をばばーんと出す蘭子。だがこれはギャグとしてまだ軽い。しかし、これはこれでいいのだ。まだ1戦目だからである。
第2戦の食レポ対決では、ばっちりと決まった正統派のレポートをするきららたむに対し、蘭子はまたしても「ふっ・・・そんなんじゃ全然伝わんないわ」と言いつつドーナツをかじり「こ、これはっ!!」と雷のエフェクトを使ってまで過剰なリアクションを取る蘭子。そこからはミスター味っ子的な過度なリアクション芸が始まる。この段階で、我々は蘭子が芸人であることをようやく理解し始める。食レポを求められてミスター味っ子的なリアクション芸をしてしまう子が、芸人でないとしたら何であろうか?

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リポートのシーンで引っかかっていた蘭子の態度も、ここにきて腑に落ちる。芸人ならば、リポートを引っ掻き回すのも致し方なし。監督も、蘭子を芸人として扱っていたからこその満足気な態度だったのだ。我々は、リポート時での蘭子の態度を許すと同時に、蘭子のことをボケを担当する芸人キャラとして捉え始める。ここにきて準備は全て整った。芸人としてボケをこなす蘭子、そしてそれにツッコミを入れる周囲の面々。コントの土台となるボケとツッコミの役割分担がここにきて明確になるのである。

そして、視聴者が今回の話をボケとツッコミが出てくるコントの一つとして認識できた第2戦目が終わり、続く第3戦目においてボケの強度は最高潮を迎えることになる。

 

自身で描いたゆるキャラのきぐるみを着て競争をするという第3戦。もはや、この絵ヅラだけでもシリアス要素など一片も無いことが分かる。

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きぐるみを着ることを躊躇するきららたむ。きららたむはクールな性格なので、こんな”ヨゴレ”がやるような仕事は本当ならやらないのだ。ところが、「蘭子みたいのだけには負けたくない」という思いからきぐるみを着て勝負をするきららたむ。

不思議なのは、ドーナツ姫のきぐるみを着ているきららたむが、そこまで”ヨゴレ”の仕事をしているようには見えないことである。普段の回できららたむがこんな格好をしていたら凄く不安定な気持ちになっていただろう。しかし、今回は隣に蘭子が居る。根性ドーナツくんの姿をした蘭子が。こちらの”ヨゴレ”度と比較すると、ドーナツ姫なんて可愛いものである。芸人に徹している蘭子が居るおかげで、間抜けなドーナツ姫姿のきららたむが普通に可愛く見える、という現象が起こっている。これも、蘭子が持つボケ要素が非常に強いからだと言えるだろう。

 

ボケのレベルが一定の閾値を超えてしまったきぐるみ競争対決。この状況をツッコミによって収拾させられるキャラが居るのだろうか・・・と不安に思っていると、思わぬところからツッコミが飛んでくる。なんと、みなみん。ここにきて、みなみんがツッコミ役と化す。

テレビ撮影ではしゃぐはるかに対しては「落ち着いてはるか、テレビに出るのはきららよ」と、ゆるキャラお絵かき対決では「きららは服のデザインもしているからきっと大丈夫よ」と、いつでも冷静にコメントしていただけのみなみんが、なんとツッコミ役になってしまう(前者も見ようによってはツッコミだが)。以下がその内容である。

 

きぐるみを着たまま走りだすきららたむと蘭子。それ見て

みなみん「すごく走りづらそうね」
ゆい「まぁ、きぐるみですしね」

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非常に高度なツッコミである。要するに「こいつら必死になって何やってんの?」を「すごく走りづらそうね」とし、婉曲的に言っているのだ。ゆいの冷め切った受け答えもその冷静さに拍車をかける。ちなみに、みなみんの性格から考えて本心から「すごく走りづらそうね」と言っているのだろうが、汚れた大人の我々からするとどうしても皮肉として捉えられてしまう。だからこそ、ツッコミとして成り立つのである。

ここで注目したいのは、今まではただの冷静なコメントに過ぎなかったみなみんの言葉が、今までと変わらぬテンションだというのにここに来てツッコミと化しているという点である。ツッコミ役でない人間が話の流れでツッコミと化してしまう。コントとしてはとても高度なことを行ってるという気がするが、どうであろう。

ちなみに、これまでのプリプリをずっと見てきた私としては「みなみんがツッコミをしている」というだけで非常に面白かった。「そんな配役があり得て、更にそれが成立するのか・・・」と震える思いがした。

 

ここで一度まとめよう。蘭子のリアクション芸という概念を理解するのも、みなみんの冷静な言葉を面白く感じるのも、大人にしか出来ないことである。いや、私が女児をなめているだけで、ここに書いたような面白さをおぼろげに理解している女児も居るのかもしれない。しかしやはり、このような面白さを明確に理解できるのは大人だけであろう。女児アニメを見る者による「最近の女児アニメは女児向けに作られている気がしない」という言葉の源泉はこういったところにある。

 

さて、きららたむと蘭子はきぐるみを着たまま白熱したデッドヒートを繰り広げ、ラスト付近で蘭子は倒れてしまう。このときの様子がこれだ。

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みなみんとゆいのやり取りのよって冷静な目線を手に入れている我々は、内心「こいつら必死に何やってんだ・・・なんなんだこれ・・・」とシュールさを感じてツッコムことになるのだが、なぜか劇中では熱いBGMが流れている。その後は怒涛の展開が始まる。これについては勢いが凄まじすぎて、文章で面白さを伝えられるような物ではないのだが、一応がんばってみよう。

 

倒れた根性ドーナツくんを置いてきららたむはゴールに到着。観客は熱狂。喜ぶきららたむ。すると突然、観客から声があがる。
「お、おい!見ろよ!」
まさか!?そう思って振り向いてみると根性ドーナツの奴が立ち上がろうとしている。
「根性ドーナツくんがっ・・・!」
さっきまでの冷静さはどこへやら、まだ立ち上がろうとする根性ドーナツくんの根性に感動し、涙目で叫ぶみなみん。

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「もう勝負はついているのに・・・凄い・・・」
はるかも根性ドーナツくんの根性に愕然とする。

身体はもうボロボロだ。それでもゴールしようと必死に走る根性ドーナツくん。勝負はついても、最後まで諦めない。それが根性のあるドーナツ、根性ドーナツくんなのだ。
その姿に観客たちは心を打たれ、声援が飛び交う。
「がんばれ!ガッツドーナツくん!」
「がんばれっ!気合ドーナツくん!」
「素晴らしいよ・・・あっぱれドーナツくん!」
「ナイスファイト!ドーナツ野郎!!」
みんなの応援を受け、根性でゴールする根性ドーナツくん。しかし、全ての根性を使い果たした根性ドーナツくんは、真っ白な灰に燃え尽きてしまうのだった・・・

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もう着いていけない。いや、ついていけるがツッコミが追いつかない。ここに至り、ツッコミは消失している。畳み掛けるようなボケの連続に我々は圧倒されるのみだ。しかしこれが、とても面白い。もし私がこのシーンをニコニコでの放送で見ていたとしたらコメント蘭に「wwwww」しか打てなかっただろう。この面白さも、12話の冒頭からボケとコントのムードを徐々に高めてきたからこそ得られた物である。丁寧に積み上げた先にこの「燃え尽きた根性ドーナツくん」の一枚絵があるのだ。

しかし、前回のドシリアスな11話を見た直後に12話がこんな展開になるなんて予想できた人が居ただろうか。全く予想もできない超展開も女児アニメの魅力かもしれない。

 

そして最後に、毎度のお約束通り、ここまでボケにボケ倒した蘭子のもとへとディスダークの魔の手が忍び寄る。敵のシャットは今までの展開を「熱くるしい」と切り捨て、蘭子をゼツボーグへと変えるため、夢の扉をこじ開ける。

シャット「あなたの夢を見せなさい」
蘭子「テレビに輝くトップアイドルよっ!!」
シャット「えっ?」

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ここでなんと、ボケである蘭子は、ついには敵にまで「夢はコメディアンなのでは?」とツッコマせることに成功する。流石に敵もツッコマざるを得ないほどのボケだったのだ。さぞや蘭子も芸人として満足だろう。

しかもこのシーン、シャットがツッコむ相手は夢の中の蘭子である。今までの話では夢の中のキャラは一枚絵としてしか登場しなかった。それなのに、今回は夢の中の蘭子に敵がツッコミ、夢の中の蘭子がそれに応える。非常にメタい。高度な演出である。

更に畳み掛けるようにして、なぜかドーナツ姿のゼツボーグに変身してしまう蘭子に
「夢はアイドルじゃなかったのかしら・・・」
と即座にツッコミを入れるみなみん。ボケに対してはツッコミを入れる。それがコントの基本である。

 

今回の流れはだいたいこんな感じだった。その後プリキュアがゼツボーグを倒し、蘭子を救い出す。最後に蘭子が同じ学校の生徒であることが明かされて終わる。

コントとしての完成度はとても高いと思う。既に見た方ならば私がいちいち説明せずともお分かりだろう。「どうせ女児向けアニメなんて」と考えている人は、是非とも一度プリプリを見て頂きたい。大人でも満足できる、というか、大人にしか理解できないのでは?と思えるような高度なネタが各所に配置されている。

女児向けアニメは、もはや女児だけに向けられたメディアではないのだ。今の女児アニメは大人に見られることを望んでいる。「女児向け」という言葉に引っ張られて「アニメは見るけど女児向けアニメはちょっと・・・」という人はまだまだ多い。そんな人たちに、女児向けアニメは大人が見ても楽しめる、ということを少しでも伝えられたら幸いである。


今回はコント回だったが、クローズの二の舞にはなりたくないと考えているシャットや、きららたむと蘭子が仲良くなるまでの過程もきちんと描かれていた。コントだけに始終せず、物語に必要な要素はきちんと盛り込んでくるのがプリンセスプリキュアである。アニメ好きだというのにこのとても丁寧に作られた女児向けアニメを見ないのはもったいない。私は本ブログにおいて「大人が見ても女児向けアニメは楽しめる」ということを今後も痛切に訴えていくつもりだ。

最後に、みなみんの「ドーナツ生地が柔らかいのね」はちょっと滑っていたよね?という疑問を添えて本記事は終わりとする。

「日記の書き方」と「テキスト」

帰宅してPCを付けて気づいた。悲報、俺、ブログを書くことに飽きる。飽きるというよりも、書くことが何一つ見つからなくなってしまった。気が狂ったようにほぼ毎日あれだけ更新していたが、どうやら俺はここら辺が限界らしい。毎日欠かさず更新しているサイトとか、信じられない。本当に尊敬する。気分が乗った日に2日分書き溜めておいて、気分が乗らない日には日記のストックから引っ張りだしてコピペ更新しているのではないかと疑っている。というよりも、俺が不運にも毎日更新を宣言してしまっていたとしたら、絶対にそうしている。そうしたところで毎日更新なんて2週間ももたないだろうけど。

正直もうね、日記なんて書き方忘れましたよ。俺の脳の一体いかなる部分が過去の日記を生み出していたのか、今となっては理解できない。俺自身にすら俺のことが皆目理解できない。24年間生きてきましたよ。それでもさっぱり。つい3日か4日前の自分についてすら思い出せない。完全に今の俺とは別人。少なくとも、日記という記録を読む限りでは今の俺とは別人。一体どこの誰が好き好んでこんな無意味なテキストを書いたというんだろうね。そいつの人生のつまらなさを想像すると、本当に笑えてくる。こんな長文を書いてネットに載せちゃうような人って、社会ではつまはじき者になっているんだろうなあ。笑っちゃうなあ。俺はこんな訳の分からないこと書いてる人間とは違うから、もっと内容のきっちりとした、質の高い日記を書くんだ。起承転結を意識しような。なんでも勢いだけでなんとかできると考えるのはやめろ。

てか、本当にこれまでの書いたのは俺なのだろうか・・・いまいち自信が無くなってきた・・・心の声を解放しすぎ。現実で起きた出来事から目をそらして、インターネットに自分の感情を吐露しすぎ。俺、そういう人間じゃないでしょ。もっとまともなはず。もう少しパブリックな物であることを意識した文章を書いて頂かないと、こちらとしても困るんですよ。本当に聞いてるんですか?なんで俺はそういうことができないんですかね?一体いくつの黒歴史を量産すれば気が済むんですか?もう少し、理性を伴った文章ってもんを書いてくださいよ。

というか、自分で作った物や書いた物なんて、いくら意識して整えていこうと思っても、一度ネット上に公開してしまったらほぼ全て黒歴史と化すんじゃなかろうか。公開直後は満足していたとしても、5年後10年後の自分から見たら絶句するほど恥ずかしいことをやってるのかもしれない。日記とかテキストなんて、実際そういうものじゃない?絵や音楽なら上達の具合が分かりやすいけど、文章なんて上達してるんだがしてないんだがいまいち分からないしさ。俺の経験が少ないだけかな?まあいい。そもそも過去の日記を読んだのが間違いだった。恥ずかしくなるに決まっているからだ。正直、その時々ではまぁまぁ限られた時間で自分のやれる限りのことはやってるようなつもりだから、実際どうしようもないんだよね。もうね、過去の恥ずかしい日記を自分が書いた物として認めたくない気持ちはもう仕方がない。諦めよう。全て受け入れて行くしかない。

あっ、気づいた。今気づいたんだけど。日記を書くのなんてね、思い切りの良さですよ。「えいっ」と一歩飛び出す勇気。日記を書いて公開するのに必要なことの全てはこれです。それさえあれば質はともかく量は稼げるよ。どうにでもなーれ、という気持ちが大切。その上で、気分が乗った時はたくさん書き、乗らない時は適当に好き勝手脳内にあることを書き出して、バンジージャンプするときのような気持ちで更新ボタンを押せばOK。だいたいそれで解決する。細かいことを気にしてはいけない。というか、あれなんですか?もしかして、テキストサイトが「日記」と「テキスト」の枠にコンテンツを分けている理由ってこれ?何も考えず脳内にあることを書き出していくのが日記で、少しは脳を使用して気合入れて書いたのがテキストということ?いま、はじめてテキストサイト管理人の気持ちが分かった気がする。読者として日記とテキストを同様の目線で読んでいたから気づけなかったけど、管理人側からすればそういう意図の違いがあったのか・・・自分でブログに日記というものを2週間近く書いてみて初めて分かった。力の入れ方が違うのだろうな。


普段書く日記で脳を使うことを要求されたら、続くわけがない。仕事から帰ってきて、人に必要な物って癒やしじゃない?そういう”質”のことを考えながらテキストエディタに向かうなんて、考えてみれば土台無理な話だった。要するに、日記なんてものは脳内に渦巻いている何かを日本語の形にして吐き出してしまえば。何も考えなくていいのである。だから、日記に飽きたも糞も無いのだ。なんだか徐々に、日記の書き方が分かってきた。
俺たちが社会の中に居るうちは、頭に思い浮かぶ色々な思いにフタをして生きている。そのフタをすっと取り外し、あとは流れに身を任せてしませばいいのだ。ほら、なんか、そうこうしている内に日記っぽい何かがこうして出来上がってきたでしょ。明日以降の俺よ、どうかこの日記の書き方を忘れずに居てもらいたい。脳を使おうとしちゃ、いかんぞ?俺との約束な。


というかさ、同じ手法で小説も書けるんじゃね?小説が書けないというのは、理性のどこかが自分にリミッターをかけているからなのでは、という気がする。気負ってしまうから書けなくなるのだ。それならば、日記のときと同じように、何も考えず、何も気にせずに流されるままに書いていけばいつの間にかそれっぽいのが出来上がってるんじゃね?という訳で試してみよう。何か取っ掛かりが欲しいな。そうだ。昨日のVテキ本スレにあったテーマがちょうどいいじゃん。というわけでプリンで書いてみまーす。習うより慣れろじゃ!!

・・・

って、あれー?書けない。一体どうなってるんだ?書けないぞおい!書けないあまり、さっきの日記状態に戻ってきてしまった。心情を吐露するモードに帰ってきてしまった。なんかこう、違うのか?創作、っていうのは。日記を書くときとは違うのか?物語の世界に入らなきゃならん感じ?そういうモードにならなきゃならん感じ?さっき試してみたけど、マジで入れないわ。こっちの何も考えずキーボードを叩いてる時の方が百万倍楽。でも、いつまでも楽な方にばかり流れている訳にはいかないんだよな。結局のところ、テキストの中でも最も人に訴求力を持つのって小説じゃない?とすると、やっぱりテキストサイトというものを経営していくにあたって、そういうものの一つや二つ書けた方が有利ってもんでしょ。さっき書いてたコンテンツの分類でいうと、”日記”ではなくて”テキスト”の方に入れられるような文章も書けなきゃならない。そっちも書けるようになったら色々とパターンが広がって楽しいと思うんだよね。というわけで、プリンで書いてみまーす。

 

"海で食べるプリン"

 オレが海水浴場で日光浴をしていると、物売りの声が聞こえてきた。

 季節は夏真っ盛り。海岸には人が大勢賑わっている。オレは海岸の隅っこの方を陣取り、デッキチェアに寝転がりながら水平線をただ眺めていた。海パン一丁の姿だが海には入らない。もうこの歳にもなると、砂浜で日の光を浴びてるだけで満足なのだ。

 最初、物売りの声は雑音として周囲のざわつきに紛れているだけだった。けれども彼の言葉が理解できた途端、オレの興味はすぐさまそちらへ引かれた。

「プリン、プリンいかがっすかー!」

 プリン?海岸でプリンを売るなんて珍しいこともあるもんだ。アイスや飲み物なら分かるけど、プリンって。

 オレはチェアの横に置かれたテーブルからビール入りのタンブラーを取ると、プリン売りの兄ちゃんを目で追った。クーラーボックスを肩にかけている。恐らくあの中にプリンが入っているのだろう。こんな暑い日にあんな重そうなボックスを持ってプリンを売るなんて、ご苦労なこった。もっとマシな物を売れば良いのに。

 冷えたビールがうまい。プリンなんて売らずに、ビールを売ればいいのだ。プリンなんかよりもよっぽど売れるはずである。利益率も良いはずだ。なぜよりによってプリンなのだろうか。

 オレが疑問に思っていると、中学生くらいの女の子がプリン売りに駆け寄っていった。

「プリン2つ下さい!」
「あいよ。合計で400円ね」

 女の子はプリンとスプーンを受け取る。遠目に見たところ、普通のカスタードプリンのようだ。女の子はお礼を言って、来たときと同じように走って帰っていった。オレが知らないだけで、海でプリンを食べる客は結構多いのかもしれない。今の中高生が何を考えてるのかなんて分かりやしない。それにしてもプリンを買ったあの女の子、とても良い笑顔だったな。彼氏なんかと一緒に食べるのかな。若い。羨ましい限りだ。

 プリン1つで200円か。売り歩いている割には安い。海岸でプリンを食べてみる、というのも意外とオツかもしれない。なんだか無性にプリンが食べたくなってきた。女の子が買ったプリンを見ていたせいだ。あの甘みが恋しい。

「すいません。プリン売りの人、プリン1つ下さい」

 気づいたときにはデッキチェアから身を乗り出して、少し大きめの声で叫んでいた。プリン売りはすぐこちらに気づく。結局、オレはプリンを買ってしまった。プリン売りは客であるオレに軽く会釈したあと、大声でプリンを宣伝しながら人混みへと消えていった。

 

 オレは買った物を確認した。プラスチックのスプーンと、プラスチックのカップに入った普通のプリンだ。底にはきちんとカラメルが見える。さっきまでクーラーボックスで冷やされていたのか、とてもひんやりとしている。

 まあ、ずっと眺めていても仕方がない。こんな真夏日だ。なま物であるプリンなんて、すぐに悪くなってしまうかもしれない。オレは早速カップの封を開け、ビニールからスプーンを取り出すと、プリンをすくって口へ運んだ。

 うん、うまい。滑らかな舌触りだ。少し強めの甘みが舌を通じて脳に伝わる。オレはカップの底にまでスプーンを突っ込み、今度はカラメルと一緒に食してみた。美味しい。甘めに作られたプリン部分とは対照的に、カラメルソースは苦味が強めだった。だが、この炎天下のもとではこの苦味がたまらない。飲み慣れたビールとはまた違う、懐かしい苦味だ。甘みと苦味が口の中で溶け合う。オレは次々とプリンを口へ運び、すぐに全て平らげてしまった。

 海にプリン。案外悪く無いのかもしれないな。もしくは海で食べれば何でも美味しく感じるということか?まあいい。今日は新しい発見があったのだ。

 オレは日光浴の続きに戻った。

 

 それにしても暑い。さっき食べたプリンの甘さがまだ口の中に残っている。暑いし、甘ったるい。オレは口の中をビールで流すため、タンブラーを手にとった。そこで思い出す。カラだ。もうビールが無い。さっき、女の子を見ながら全部飲んじまったんだ。

 予備のビールはもう無く、新しく買うには海の家まで歩く必要があった。海の家はずっと遠くに見える。人混みをかいくぐり、そこまで歩いて行くことを想像して、オレは溜息をついた。

 飲み物はない。口の中は甘ったるい。仕方ねえなあ。オレはデッキチェアから重い腰をあげると、海へ向かって歩き出した。久々に泳いでみる気になったのだ。甘ったるさも海水で流されるかもしれないしな。波がこちらへ打ち寄せてくる。足にかかる水しぶきが思ってたよりも冷たい。

 オレは日光浴をやめたことを一瞬だけ後悔したがすぐに思い直し、頭から海へ真っ逆さまに飛び込んだ。

end

 

う、うーん???うーん・・・はぁ・・・疲れた・・あかんこれ・・・精も根も尽き果てた。なれないことを、深夜にするのはやめよう。もう良く分からなくなってきた。脳が限界。今日はもう無理。ね、寝るのだ。

プラスティック・メモリーズ 2話 「足を引っ張りたくないので」 感想

見たでしょうか。プラスティックメモリーズ2話。それでは本ブログのメインコンテンツであるところのアニメ感想、いきたいと思います。見た?ちゃんと見た?このアニメ感想だけが俺の癒やしだ。以下ネタバレあり感想。


OPがまず最高にクール。なんだこのOPは。まず第一にみんな暗い顔をしている。明るい顔をしているのが、陽の光のもとで楽しそうにクルクルと回っているときのアイラだけという事態。他の奴らは全員俯き加減だ。そりゃそうだよな。何も救いが無いもの。ギフティアの定まった寿命、そんな重いテーマと向き合っているというのに楽しく笑うことなんてできないよな。恐らく笑っているアイラは、自分の寿命をまだ知らなかった頃のアイラなんじゃなかろうか。もしくは、ポンコツになっていなかった頃のアイラ?とにかく、元気だった頃のアイラだ。他には誰も笑ってる奴なんて居ない。最近は、ハードな展開になるアニメなんて一つも見ていなかったから、こんな暗いOPを見ることすら久しぶりだった。OPなんて、アイドルユニットが大勢の観客の前でライブしているシーンみたいに、キラキラした光で溢れているものばかりだと思っていた。けれども、プラスティックメモリーズのOPでは、キラキラした光が溢れているのはアイラだけ。他のみんなは誰も笑ってない。久々にこんなにも暗いOPを見た。更に言えば、アイラが笑っているのも一瞬だけ。夕方と夜のアイラはどうとも形容のしがたい表情をしている。朝夕夜が時間経過を表しているのだとしたら、底抜けに明るかった頃のアイラはもう過去の物なのだ。今後は、ハードでタフな展開しかない。それをOPで教えてくれている。

 

けれども2話の本編が始まってみれば、そこまで重い展開は無かった。というよりも、純粋にみんなが可愛すぎるあまり、このアニメがそういうアニメだということをしばしの間忘れてしまった。なんていうかね、ミチルとエル、可愛すぎだろっ!!!いい加減にしてくれ!俺はそういう気分でこのアニメにのぞんでいる訳ではないんだ。アイラちゃんの未来を見届けるために、このアニメを毎週楽しみにしている。そういう、大人としての、真っ当な精神性でこのアニメを視聴している。それにも関わらず、ミチルとエル、可愛すぎ。ミチルはツンデレ可愛いし、エルは巨乳ハイテンション金髪ボケかわいい。お分かりですか?このジャンルを形容する言葉が無いから、特徴を列挙してしまったけど。

まあミチルが可愛いのは俺が説明せずとも皆さんご了承済みだと思うから、省略する。てかさエル、可愛くない?マジでエル好きだわ。彼女になってくれ。頼む。嫁かっ?ついに、嫁、見つかったのか?エルみたいなキャラ、好き。やっぱ、正直に言う。ミチルもエルも可愛かったけど。エルの方が圧倒的に可愛かった故、ミチルについては今のところそこまで心がときめかない。よってエルについてしか感想が出てこない。いや、ミチル、可愛いと思うよ?思うけども、俺は圧倒的にこの金髪巨乳のハイテンションボケの方が好きなの。ツンデレよりもさ。そういうことなんだよ。俺もすっかり大人になっちまった、ってことだ。高校生の頃ならミチルのツンデレにしか気づけなかっただろうな。けれども、苦節24年、様々な辛酸を舐め尽くしてきた今の俺なら、エルの良さにも気づけるってこと。そんな大人に無事なれたっていうわけだ。良かった~。ま、ほんと、何も良くないけど、良かった~~

てかほんと、エルの何がこんなにいいんだろうな。単純に巨乳だからかな?黄色いつなぎに黒ブラ巨乳、っていうキャラのビジュアルがめっちゃ最高だからかな?いや、それだけじゃないはずだ。何かしら、俺がエルに魅力を感じてしまう理由があるはずなんだ。何かを予感しているのかもしれないな。なんていうか、スゴク頑張ってる感じがする。ギフティアのメンテナンスなんて大変なことばかりだろうに。そんな大変なことばかりなのに、暗くならずにこれだけハイテンションなところとか。そういうところに芯の強さが感じられて、すごく引き寄せられる。そういう、何かしらの予感はあるけど、まあそんなことはどうでもいい。とにかく、エル最高。とても好きなキャラです。何回でも言えます。とても好きです。今後ともエルに注目です。

 

ま、エルが可愛いのは良いとして、エル回への期待がはち切れんばかりなのは良いとしてな。水の中で訓練するアイラちゃんですよ。なんつーかつらいね。だって、自分で分かってるわけだからね。アイラが一番、自分の身体について分かってるはずなんだよ。それでも、やっても無駄だとは理解しつつも訓練を頑張るなんて、あまりにも健気すぎる。救ってあげたい。俺たちは、アイラちゃんのことを救ってあげたいのだ。けど無理なんだよな。そもそも俺は穢れすぎている。アイラちゃんに救いの手を差し伸べるにはあまりにもくたびれ切った大人だ。目をそらさずに見守ることはできても、アイラを救うことはできない。それではどうするか?アイラはどうしたら救えるのか?

 

というか、ヤスタカ。ヤスタカよぉ。おまえなんとかしろよ。ラストのあれ、なんだよ。アイラがもう2000時間しか寿命が無いってんなら、なんとかしろよ。大人の癖に何もできねえのか?まあ、俺だって何もできないけどな。ヤスタカ、お前は何か知ってるていうなら、せめてなんとかできる素振りくらい見せてくれよ。実はなんとかなるんじゃねえか?言っておくけど、もしなんとかできないってなら、俺の心は耐えられないからな。今後の展開に耐えられずに崩壊するから。そこだけは強調していきたい。

 

そりゃ、最終回でアイラが死ぬ、なんてことを断言されたらね。薄々は感づいていたけどさ。こう、きっちり言わちゃうと、つらいんですわ。もしも、アイラの寿命が尽きて永遠にお別れなんてことが、現実に起こってしまったとしたら・・・泣くとかつらいとか、そういう問題でなくなる。尽きる。俺の魂が尽きる。てかね、起こり得ない。そんなことが起こってはならない。確かにヤスタカ、お前はもう諦めているかもしれない。けどな、こっちにはツカサの奴が居るから。主人公のツカサがな。俺達にはまだツカサがついているから。

 

実は俺は、アイラが最終回で死ぬとは本気で思っていない。なぜなら、俺はまだ期待してしまっているからだ。”奇跡”ってやつを。もはや、こんなカッチリとした世界観の中で、アイラの寿命が延びるなんていう事態が起こり得るとしたら、それはもう奇跡しかないんですわ。もしくは、技術革新?とか。とにかく、俺は何らかの形でアイラの寿命が延びることを信じている。だってそうだろ。アイラはまだ死んでいない。それとツカサの存在。これよこれ。この理由。俺がアイラが生き残る方にベットする担保はこれ。俺はね、ツカサがどうにか、この救いがたい運命を変えてくれる、とそう信じている。アホのヤスタカはもう諦めちまってるし、視聴者であるところの俺たちは直接手を差し伸べることができない。何かできるのは主人公のツカサ、お前だけなんだよ。奇跡を起こせるのはお前しか居ないんだ。だから頼むぞ。2000時間になんて余命に負けるなよ。OPに映っていたような笑顔のアイラを、俺達にもう一度見せてくれよ。俺はまだ諦めていない。だからお前も諦めるなよ。

 

最終回で泣いちまうとか言っている奴ら、聞こえているか。言っておくが俺は、嬉し泣きをする予定だ。最終回は嬉し泣きをする。なぜなら、アイラは助かるからだ。ツカサがなんとかしてくれる。死ぬわけない。諦めるのはまだ早い。プラスティックメモリーズを見続けている皆さん、可能性は残されている。残されています。奇跡も魔法も、あるはずです。皆さん、信じ続けましょう。祈るのです。最終話まで、ただただ祈り続けるのです。みんなが笑顔になれるような、そんなハッピーエンドを強く思うのです。そうすれば、奇跡は起こります。だから、暗いことばかり考えるのはやめましょう。全てが2000時間、1クールで終わるなんて信じません。プラスティックメモリーズ2期があります。絶対にあります。アイラたちにとってのきんいろな日常が二期では見られるはずです。それでは最後まで祈り続けましょう・・・

溶解大陸ではプラスティック・メモリーズ2期を推奨しています。