溶解大陸

アニメの感想とか書きたいなあ

2つの疑問

文章を書く、という意気込みは価値を創造するのだろうか?というまた一つ厄介な難題が頭に浮かんでは消える毎日、皆さんいかがお過ごしでしょうか。例えばだ。例えば、俺がいま幸福の絶頂に居るとしよう。そんな俺が何も考えずに打った文章の価値は、一体どれほどの物になるのだろうか。幸福の絶頂に居るため「面白い文章を書くぞ」という意図は介在せず、ただ勢いだけでキーボードを叩いてしまう。それによって出力された文章は、果たして面白い物になるんだろうか。

具体的に言うならば、平常な気分の時に「幸福の絶頂に居る、ということを読者に感じさせるような文章を書こう」と意図して書いた文章と、実際に俺が幸福の絶頂に居るときにただキーボードを叩くことによって生み出される文章では、どちらがより”面白い”ものになるのか、ということだ。考えてキーボードを叩くか、感情に任せるままキーボードを叩くか。どちらのほうが読者にとっては面白くなるのか。そこのところが、いまいち謎だ。

というか、学校教育だと「文章に感情を込める」という作業を一度もやってきてない気がする。俺が特別無感動なだけだからか?学校の指示で読書感想文を書かされるときに「この本、とってもステキ!超感動した!この思い、どうしても先生に伝えなきゃ!!」という気分でいたか?俺は全くそんなことはなかった。なんとなく「それっぽい」感想文を適当にでっちあげては宿題のノルマを達成していた。高校以降はそれぞれの教育現場によって状況が違うから一概には言えないが、特別な授業だったり特殊な学校に進学しない限りは「感情を込めた文章」を書く機会なんて全く無い。俺はこれまでの人生で、そういう類の「感情を込めた文章」を一切書かずに生きてきたのだ。ブログを始めたことで、突然そういう物を書くようになり、上の方で挙げた疑問が生じたのも当然の帰結かもしれない。

少し自分語りになってしまうが、俺の場合はそういう「感情を込めた文章」という物をメモ代わりに年明けくらいから書いていた。主にアニメを見ているときである。主に、というかそれ以外では一切ない。このメモは感情の赴くままに勢いだけで書いてるのでとても人に見せて理解され得るような物ではない。それを人に理解され得る形に推敲し、ネット上に公開したらどんなリアクションが得られるだろうか、という興味がブログを立ち上げたきっかけの一つである。だいたい、ある程度整ったテキストの形式になってる物は俺の感情が極力、できる限り文章の方へ載せてあると思ってもらって良い。例えば初日の記事やアニメ感想系記事だ。だからこれらは「感情が昂った状態のなか勢いで書き、その後読める形に推敲した文」ということになる。本題は、これら勢いで書いた文章と俺が冷静な時に面白くなるように意識して書いた文では、どちらの方がより面白いのか、ということだ。

正直、書いていて楽なのは前者の方だ。つまり、感情が高ぶっている時である。後から推敲する作業はめちゃくちゃだるいものの、文章の骨格自体は勢いで書いてしまえる。だから、推敲するだけの十分な時間と感動さえあれば、俺自身がテキスト作成のために必要とする精神力はあまり多くない。むしろ、体力の方が消耗する。一方、後者の場合、あえて面白くなるように意識して文章を書く場合はけっこうな重労働だ。ある意味では無からの創造である。ネタだけはある状態から脳内をこねくり回し、面白い表現を意図的に見つけ出さなければならない。なにせ、感動が無いのだ。初期状態には「これこれこういうことを、読んでる人が退屈しないような形式で書いていこう」という気持ちしかない。勢いで書く場合と比べ、こちらの方がより多くの精神力を要することはすぐにお分かりだろう。

で、最初の問いに戻るんだが、この二つの状態で書かれた文章のうち、一体どちらがより”面白い”のか。面白い文章が出力されるのか。読んでいる人間が「最後まで読みたい。どんどん読みたい」と思える文章になるのか。そこが疑問としてある。この文章はある意味では、問題提起というか、脳内の疑問を書きだしただけなので、どちらにも属さない。ただの”日記”だ。こういう日記ではなく、もっとこう、例えば小説を書いている最中だとしたら「読者を感動させよう」と思って書いているときと「うああああ!!ノ、ノエルちゃーん!!ノ、ノ、ノエエエー!!」という気分で書いてる時では、どっちの方が完成度が増すものなのか、ということが気になるんだ俺は。できれば楽な方であってほしいが、もしかしたらある程度の気力は必要となってくるのかもしれない。それを考えると少し嫌だなぁ、という気分になる。

 

というかそもそも、「感動しながらキーボードを叩けば、ある程度はその感情が文章にも載る」ということを前提にして話を進めてきたが、これが間違っているという可能性もある。俺がどんなに感動してキーボードを打ったところで、そこから出力される文字列に俺が感じていた感動なんて一つも載ってやしなのかもしれない。ってあー、これか。いま気づきました。俺はこれを感じ取っていたのだ。

いま何に気づいたかというと、「どちらが面白いのか?」というのが瑣末な問題でしかなく、「感動しながら文章を打ったところで、その感動は文章に載って相手に伝わってないのかもしれない」というのがより本質的な問題であることに気付いた。マジで俺こういうの多いね。日記ってこういう効果があるから侮れない。書いてる内に脳内が整理されていくんだろうか?脳内垂れ流し治療だよ。説明しよう!脳内垂れ流し治療とは、思いつくままにいま感じている疑問を書き連ねていくことにより、俺自身が持つ本当の気持ちに辿り着くことができるという、テキスト掲載ブログの新たな使用法、21世紀型の精神治療である。副産物としてこういう気持ち悪い文章が生成される。本日は「精神的に高揚してる時に適当に書いた文と、冷静なときに面白さを意図して書いた文では、どっちが実際に面白いの?」という疑問から「果たして本当に俺は感動を文章へ載せることができているのだろうか?」という不安が導き出された。なかなか痛切な問題である。

実際、感情さえ載せることができているのなら、どちらの方が”面白い”かなんて明白なわけだ。そりゃ人の感情が乗ってる文章の方が面白いはず。多分。おそらく。例えばテキストサイトのファニーなテキスト。これもやはり”面白い”と感じる場合はどことなく感情が乗ってる場合が多い気がするんだよね。「テキスト芸」×「感情」≒「面白さ」という公式がある気がする。そりゃま、起承転結とかそういう基本に沿ってるかどうか、ってのも面白さに関与してくるけど。やっぱり「ああ、この人はいまこういう気分なんだろうな」というのが伝わってくる文章ってのが、良いテキストなのかもしれない。悲しいとか怒ってるとかそういう単純な感情に留まらず、どこか冷めた目線とか、悲惨な目にあっている自分自身への嘲笑とか、そういう細かい感情も含めて、文章のみで表現できればそりゃ面白くなるよ。テキスト芸ってのは、そういう細かい気持ちを伝えるための手段なのだ。boketeで大喜利を見たり考えたりしている時にこれは本当に感じた。

 「テキスト芸」と「感動」というのは切り離して考えるべきなのだ。というか「感動」というのは「ネタ」とも言える。これはまた昨日の記事と話が被るけども、「ネタ」というのは「感動(≒心を動かされたこと)」なのだ。大喜利で言えばお題で与えられたシチュエーションへの感情移入、そこから生み出される心を動かされる何か。そういう考え方ができるかもしれない。

だからやはり、テキスト芸の技術があるのにそれを持て余している、書くことがないって人は、感動(なんらかの形で心を動かされること)を求めて日々を暮らすべき(小説とか書ける人は強い)。「心を動かされる」というだけで、あれよあれよという間に書くことがどんどん増えていきます。やはり始めに「伝えたい気持ち」ってのが無いとモチベーション保てんよ。例えば、「何か面白いことに気づいてそれを伝えたい」とかね。やっぱそういう、基本的な部分が大事になってくるのかもしれない。

なんか毎日のように同じことを書いてる気がするけど、やっぱ「三日坊主」にならないか不安があるんだよね。文章を書くモチベーションをいかに保つか、という点に意識が集中している。最近はそういうことばかり考えているから、必然的に書く内容もそちら側へとシフトしてしまうのだ。この”日記”の良いところは、気分に応じて好きなことが書けるということ。自由に書いていける。こんなに素晴らしいことはないね。自由だよ。何を書いてもいい。疑問だろうが不安だろうが大喜利の考察だろうが、基本何をしても良いという点に”日記”の良さがある。なんだろうな、俺はもう制約されたくないのだろうか。文章を書くときに生じる「こうしなければならない」という何かから逃れたいのだろうか。テキストもどうせなら勢いだけで書いていきたいって気持ちがあるし。あ、いかん。どんどん自己分析ヌマの深みへとはまっていく。ヤバイ。戻ろう。戻ります。

 

要するに何が言いたいかというと、「文章力って大事だね」ってこと。当初想像していたよりも至極当たり前な結論に到達してしまった・・・結局のところ、感動したまま強いモチベーションを持って書き綴ったところで、総合的な意味での文章力が無ければその時の気持ちを伝えることなんてできやしないんじゃね?ってこと。俺の不安の源泉はそこにある。

いやー、当たり前だけどもシビアな現実に気付かされてるよ。あー俺が感じている気持ちのうち数ミリ%も伝えられてないのかもしれないなーっていう不安。最近少し憂鬱な文調が続き気味なのは、そういう当たり前の現実に24歳にして初めて気付かされたからです。はい。だって今までそういう類の文章なんて書いてこなかったんだもん。実際に書いて、ネット上に公開してみて、初めて気付く本質という物もある。テキスト掲載系ブログ管理人として、思春期の少年みたいに悩みは尽きません。揺らいでるね。テキスト芸、奥が深すぎ。「自分のスタイル」という物が掴めていない。模索の時期にあるなと感じる。当初は勢いのある熱い(?)文を載せていた当ブログでしたが、管理人である不肖ユズカイめの思春期的な悩みによってクヨクヨしているため、今やこうしたグダグダ日記しか載せられない現状があります。

 

うーむ・・・やはりいま抱えているこれらの問題を解決しないことには、俺はいつまでたっても前に進めない、という気がするぞ。悩みがあったらそれを吐き出したくなるし、日記の形で吐き出していたらテキストは書けない。なんとかしてこれらの不安というか悩みというか、得体のしれないモヤモヤに決着を付けなければならない。

やっぱ根本に「日記ばかり書いてるのは嫌。中身あるテキストが書きたい。でも書けない」というフラストレーションがあるのかもしれない。「文章に感情を載せることができるのか」の判断は、こうして適当に書き散らしている日記ではなく、文章力を必要とするテキストによってのみ可能となる。俺が今日抱いてる疑問や不安なんて、全て「やってみりゃ自ずと答えが分かる」タイプの物だ。テキストを書いてみて色々とこねくり回す内に、わかってくることもあるんじゃないか?boketeに少し取り組んだだけでも色々と学ぶことが多かったし。こちらについて後で別記事の方にまとめてみたい。

あ、てか、「悩みがあるから日記ばかりになってしまい、テキストが書けない」というのに「テキストを書かなければ悩みの答えは得られない」のであれば、これって車の中に鍵を置いたまま閉めちゃったパターンじゃね?どうあがいてもこの悩みループから出られないじゃん。ちょっとちょっと。これは困る。このままじゃ一生日記しか書けないってこと? やばい。いつの間にか俺は日記の袋小路に迷いこんでしまったのか?

ということは別に無くってですね、アニメ感想の一本でもサクッと書いちゃえばそれでテキスト出来上がるから。日記の袋小路なんて、無い。考えすぎ。でもま、テキストを書かずに日記を書いてるからこうしたグダグダ文章が生まれてしまって考えすぎてしまう、という一面もあるわけだが。あ、混乱してきた。頭がおかしくなる。俺は何を言ってるんだ? もう今日は考えるのやめます。

まぁ、こうしてグダグダ書くことによって整理のついた部分も実際あるわけだから、日記を書くのが無駄だとは一概に言えない、ってのが難しいところではある。今日のところはひとまず、整理のついた部分をまとめて一旦終わろう。つ、疲れた。

昨日と今日の日記の内容をまとめるとこんな感じ。

 

疑問点その1、書き手の感情という物は意識せずとも文章に表れてくるものなのか?

疑問点その2、日記とアニメ感想のモチベーションは分かった。ならば、小説を書くときのモチベーションとは?(昨日の日記)


とりあえず今後の目標は、これら2つの疑問に対する答えを見つけ出す、ということになるだろうね。解決したら良いなー。何かしら答えらしき物を知っている人が居たら教えて欲しいものです。でもこういうのって、自分で答えを得ないことにはその本質を理解することはできない感じなのかもしれんなー。でも解決の糸口だけでもいいから知ってる方が居たら教えて欲しいです(大切なことだから二度言った)。こうやってグダグダ悩まずに済む程度には、スッキリとして明確な答えを見つけられたらいいなー。

文章を書いてネットにアップしていただけなのに、意図せずして難しい問題に足を踏み入れてしまった俺。明日はどっちだ。