溶解大陸

アニメの感想とか書きたいなあ

書くことに慣れよう、という話

  • 大喜利イベントに参加できなかった

昨日のVテキ2周年イベントに参加できなかった奴が居る。俺だ。一週間、boketeで訓練をしてきた成果を見せつけるはずが、参加すらしなかったこの体たらく、どうか笑って欲しい。冷笑で迎えて頂きたい。俺も参加したかった。けれども気付いた時には夜中の2時半だったのだ。びっくりしたね。ここ最近、時間の経過スピードがあまりにも早すぎる。8時半に友達とSkypeで通話を始めて、「よーしもう寝るかー」と時計を見たら時すでに深夜2時半。6時間が経過していた。時間が飛んだのだ。

6時間って言ったらそりゃ大変な長さだ。「やろう」と思ったことはだいたい何でもできる。例えば、いまから「海へ行きたい!」と思いついたとして、その時点から実質2時間後くらいには海へ着けているはずだ。到着したら、その後は2時間ほど海岸沿いを散歩して夏の潮風をたっぷりと堪能したあと、帰宅に2時間かけてようやく6時間。6時間とはそれほど大きな時間だ。俺はあの6時間さえあれば何でもできたのだ。

 いや、冷静に考え直してみたら、海へも行けるというのは流石に言いすぎたかもしれない。モチベーションもたくさん必要だし、夜に家を出るのはどう考えても得策ではない。「Skype通話していなければなんでもできた」というのは誇張だった。けれども、より有用な形で使えた、という点には俺は確信を持っている。

例えば、映画ならば3本見れる。今まで見ていなかった不朽の名作を3本は堪能し、それを胸に明日を生きることができる。アニメならば最低でも12話は見れる。6時間もあれば1クールは余裕だろう。ネットのみんなが語り継ぐ名作アニメを一本みて、議論や感想の輪の中へ入っていくことができる。このブログへ上げる記事を書く場合はどうだろうか。いくら文字数が多いとはいえ、せいぜい一本の記事にかける時間は3~4時間である。6時間もあれば満足のいく何かが書けたに違いない。Vテキの大喜利イベントに参加していたらどうだろうか。その場合はリアルタイムでの大喜利参加という人生で初めての体験ができただろうし、その上、面白いかどうかは度外視したとしてもいくつかのボケを生むことができていたはずだ。ボケを生むことは、ある意味では日記を書くのと同じくらい価値のある作業である。

こうして考えると、やはり6時間というのは大きな数字だ。多いとも少ないとも言えないが、自由に使えるまとまった時間である。我々はとかく、こういう時間をないがしろにしがちなのだ。もっと集中して時間を活用すればアニメや映画、小説や漫画を積むことなく、有意義な生活を送ることができるだろう。

ま、そうは分かっていても、時間を浪費していってしまうのがSkype通話の恐ろしさ。そりゃね、喋っちゃうよ。喋りに喋って、気付いたときには6時間が経過してるよ。でもまあ、Skype通話も完全に無駄って訳では無いけどね。友達と話すのは楽しいし、色々と情報交換はできるし。けれども6時間は流石にやりすぎ。節度というものを持って欲しい。もし3時間で切り上げていたらVテキの2周年大喜利イベントを盛大にすっぽかす事も無かったはず。

通話を終え「ふぃーw今日も有意義な時間が過ごせたわいwさてさて、何か更新はあるかのう?w」てな具合に避難所へ飛んでみたら、既に大喜利イベントが開催されていて、はたまたVIPのスレへのURLを踏んでみたら既にレス数が500近かったりしていた。俺はもう、それを見た瞬間にSkype通話で消し飛んだ時間の長さを察し、全てが嫌になったのだ。散々喋った後の俺には、途中からイベントへ参加するだけの体力が残されていなかった。俺に出来たのは、盛り上がっているスレの熱気を尻目に、ブラウザの右上にある×ボタンを押すことだけだった。

そんないきさつにより、大喜利イベントに参加しなかった俺。もう墜ちるところまで墜ちていっている趣すらあるね。イベントには参加しない、個人HPは作らない。GWに入っても何一つ変わることの無い生活態度。どこまで堕落の一途を辿れば俺は気が済むのか。

 

  • また日記を書くとか書かないとかっていう話

ここ数日、ブログに日記を載せていなかったのもですね、「書こうと思えば書けるなら、別に今日書かなくてよくない?」という考えが頭にあったからなんだよね。はっきり言ってこの思考回路はかなり危険。なぜならその行き着く先は更新停止、ブログの死だからだ。今日書かなくていいのなら明日も別に書かなくていいのだ。書かなかったとしてもペナルティは無い。日記を書くも書かないも、全て管理人の意志に委ねられている。

正直、趣味としての日記を三日坊主で終わらせないようにしようと思ったら「できれば書く」という姿勢を維持する必要があるのかもしれない。書こうと思ったときに書けたとしても、書こうと思わなければ結局は書かないからだ。

というか、もうめんどうだし「書く」と「書かない」で区別するのはやめて、いっそのこと毎日書くことにしちゃえば良いのかもしれない。一日一回、日記的な物を書き始める習慣を付けるべきなんじゃなかろうか。とにかく書いてみて、それを公開するかどうかは後から決める。そういう方向性でいけば、更新頻度も自ずから上がっていくのでは? 

まあ、昨日みたいな日は仕方が無い。イベントがあったり、友達と話したりする機会があったり、とにかく何か特別な場合はこんなしみったれな文章を書く必要なんてない。楽しい方を優先すべきなのだ。けれども、何も無い日は結局のところ何もしないのだから、日記を書くくらいはしても良いのではないだろうか。

 

日記を書くなんて無意味なことに感じるが、やってみると案外面白い。「今日も何一つ面白いことが起こらなかったし、書くことなんて何一つないなぁ」と考えながらいざ書き始めてみると、自分すら思いもしなかった文章が生まれてくるから不思議だ。本当に不思議。脳の考える通りにキーボードを叩くという行為が、何かの刺激になっているのかもしれない。いま考えていることも段々とまとまってくる。そういう形になっていない考えを文章という形にするってだけで、結構楽しいものですよ。

それに最近は、日記らしき文章を書いていると唐突に創作スイッチが入り、はたまた唐突に小説を書き出す、ということがたびたび起こっている。実は、この日記を書き始める前にも別の日記を書いていたのだが、その途中で謎の電波を受信し、小説らしき物を書き始めてしまった。3000文字ほど書いた地点で体力が尽き、そのまま放置してある。未完成のままだから今のところ公開はしない。これを完成させるのか、完成したときに公開するのか、ということについても全て未定。ただただ放置してある。今日の文体が少し疲れ気味なのは、創作によってエネルギーの大半を消耗してしまったからだ。

いまはただ「日記を書いていると唐突に小説を書き出すことがある」ということだけが分かっている。それでもまあ、小説を書く手がかりが何一つなかった頃に比べれば成長したような気はする。とにかく、脳内の垂れ流しであろうがなかろうが、それがなんであれ何かを書いていた方が脳への刺激になるのかもしれない。だから、そういう理由からも毎日の日記を心がけていこうと思う。

 

けれど、あれなんだよな。毎日更新は無理。上記のは「できれば日記を毎日書こう」っていう抱負。更新しようとすると「ま、これくらいならネットに公開してもいいかな」って思えるまで文章を推敲しなければならない。これが本当にだるい。文章が長引けば長引くほどだるい。日記でもなんでも、こんな文章でも一応は読み返してちょこちょこと修正しているからね。これが本当にだるい。できれば書きっぱなしにしたい。

だから正直なところ「できれば日記を毎日書こう」っていう抱負には、「更新頻度を上げよう」っていう気持ちよりも、「日記を書いてる内に創作のとっかかりが見つけられたらいいな」っていう淡い期待の方が多く込められている。いやほんと、ここにこんなこと書いても仕方が無いんだけど、マジで推敲するの重労働だよ。どうなってんのこれ。時間もめっちゃかかる。誰か、誰か助けて。

 

  • 妄想を書くことについて

ま、推敲なんてどうでもいいんだ。そんなのやればできるっしょ。ここからは妄想を書くことについて話したいと思う。

どうやら「小説を書く」という作業は、脳内のイメージを文章化することらしい。「らしい」と書いたのは、今はそれを全くやっていないからだ。イメージなど全くない。気ままに日記を書いているだけだ。今となっては、創作文章を書いていたのはつい数時間ほど前のことになるのだが、自分がそれをどのようにやっていたのか全く分からない。実際に書いている時でないと、自分がそれをどうやって書いていたのかが分からないのだ。

 

ちなみにこれは、日記についても同じことが言える。とりあえず無地のエディタに向かって何かを打ち始めれば日記らしき文章が生まれていく、ということは知っている。けれども、実際に書き始めるまでは「本当に日記なんて書けるんだろうか」と自分を訝しむ気持ちで胸が一杯だ。日記を書いてない時の普段の俺には「何かしらの文章を書く」という作業すら、自分にできるかどうか疑わしく思えるのだ。

それと同様にして「脳内にイメージを浮かべ、なおかつそれを文章化していく」なんてことができるんだろうか、と日記を書いている今の俺は訝しんでいる。けれども、現実に、俺が書いた創作の一片が3000文字分だけ存在している。どうやら俺は、イメージも少しは浮かぶし、それを文章に落とし込むことも、まあどうにかしてできるらしい。なんというか不思議な気分だ。俺が俺に「どうやってやったの?」と聞きたい。

 

なんだろう。自転車を漕ぐ練習をしている時と同じ感覚なんだろうか。でもそれよりも、もっとぼんやりとしている雰囲気がある。「できる」と「できない」の差異を感じにくいのだ。自転車ならば具体的な挑戦が可能だ。乗ろうと思って乗れなければ、その時の感覚を調整して次の機会に頑張ればよい。それを繰り返している内に気付いたら自転車に乗れているのだ。乗れないのであれば乗ってみようとすればいい。

けれども、小説を書こうとした場合、いったい何を挑戦すれば良いのか皆目見当がつかない。小説を書こうと思って真っ白なエディタに向かう、ってのもなんだか少し違う気がする。さっきまでの俺がどういった経緯で頭にイメージを浮かべそれを文章化しようと思うに至ったのか、全く覚えていない。更に付け加えるならば、この日記を書き始める前の段階でこんな文章が生まれるとは全く想定していなかったし、どうして今こんなことを書くに至っているのか、その経緯も全く覚えていない。何もかもが闇の中だ。俺がたびたび口にしている、頭の動かし方が分からない、というのはこういうことである。

 

だいたいさ、イメージってそんなに浮かんでくるものなの? 浮かばなくね? 何かを思い出す時にそのイメージが浮かぶ、ってのなら理解できるけど、全くの妄想を頭の中で具体的にイメージすることってある? いや、「もし3億円当たったらどうしようかなぁ」っていう自分に関係したことならまだ分かるよ。でも、キャラクター的な他者がどこかで何かをしているシーンとか、妄想で頭に浮かぶものなの? 浮かばないでしょ。自分とは別の何かが妄想の中で動き出すっていう現象、冷静に考えて理解不能でしょ。

でもまぁ、なぜか俺はそれをやってのけたらしい。過去の日記内にも掌編がいくつか残ってるし、新たに3000文字分の創作文章が手元に残されている。一体何が起こってるんだろうか。

 

というか、そもそも、この文章をここまで読んでいる数少ない奇特な方々もこう思っているかもしれない。「こんな垂れ流し日記、まともな神経してたら書かないし恥ずかしくて公開もしないよね。てかなんで適当に書いててこんなに長文になるの? マジで理解不能。もっと人生を有意義な方向に使えばいいのに」と。でも俺はこうして垂れ流しで書けていられるし、それをネットに公開することもできている。脳内を垂れ流す感覚を掴んでしまっている。けれど、この感覚を相手に伝えることは至極困難だ。自分でもどうやっているのか分からない。自分でも分からないことは人に伝えることもできない。

結局のところ、垂れ流し日記を書く感覚を掴むのと同様に、妄想を文章化する感覚も自分で掴まなければならないのだろう。実践あるのみ。自転車だってそうじゃないか。人からどれだけコツを教わっても、最終的には自分で取り組まなければならない。言葉にはできない微妙な感覚というものを肌で感じなければならない。試行錯誤をし、自転車に乗れるようにするのは他でもない、自分自身なのだ。妄想を文章化する、ということも結局は自転車に乗るのと同じ話だ。

 

  • 超疲れた 

それと、「創作」というのを少しやってみて分かったのは、こういう雑然とした文を書いている時よりも数倍の集中力が必要だ、ということだ。マジでヤバい。3000文字程度の拙い創作で、ここまで消耗するとは思ってなかった。とんでもない体力が必要となる。これはガチ。イメージしながら文章を書くとか、右脳と左脳を使いすぎでしょ。

試しにメモ帳を開いて何かしらの妄想を文章化してみて欲しい。まず真っ白なメモ帳を見て絶望するところから始まる。なんであれ、文章に落とし込むべきイメージを脳内に思い浮かべることが、既に至難の業なのだ。第一これが簡単に出来るのならばテキストサイト管理人がネタに困ることなどない。それが創作であれなんであれ、書くべきことが無尽蔵に見つかり毎日更新できているはずだ。それが出来ないからこそ、更新が滞ってしまうのだ。

また、書きたいイメージが浮かんだら浮かんだで、それを維持しながら文章を書いていかなければならない。文字を打つだけでも大変なのに、それに加えてイメージをし続けなければならないのだ。あまりにも過酷。マジで超大変。この作業に「慣れる」なんてことがあるのか? それに、妄想ストーリーが次から次へと浮かぶことなんて、本当にあるんだろうか? いつになっても疑問は尽きない。それに超疲れた。そろそろこの辺で終わりにしたい。

 

あーほんと、さっきまでの俺はこの3000文字の断片を一体どうやって書いていたんだろうな。全くその感覚を思い出せない。俺だって掌編を完成させてできれば公開に漕ぎつけたいが、明日になってから続きを書けるかどうかも分からない。当分の間は日記を書き続けることで何かがやってくるのを待つしか無いらしい。とりあえずは「日記を毎日書く」ことを目標にしようと思う。鬼が出るか蛇が出るか。行動しない限りは何も分からないのだ。